ものがたりが始まる

今日の成瀬望

内田樹講演「私が白川静先生から学んだこと」①

6月11日(土)京都立命館大学での内田樹さんの講演を聴きにいきました。
立命館土曜講座公開講演会「私が白川静先生から学んだこと」。

「今日の内容は、“私が学んだこと”なので、
白川先生が言っていないことまでも、
私が勝手に学んでいるかもしれません。
なので、講演内容について
白川静の文献の中からエビデンス(証拠)を示せ”と
言われても示せない場合がありますが、よろしく。」

こんな感じの、非常に内田樹らしい発言で、講演は始まりました。
以下に内容を簡単にまとめてみたいと思います。


内田樹白川静先生から学んだこと。
それは、「文体」「祖述」「呪術」の3つ。


1.文体
白川静に学んだ「文体」は、
断定する言葉遣い「である」「であろう」などを使用すること。
断定するには覚悟がいる。
物事を断定で言い切るには、調べ尽くした後でないと出来ない。
かつ、学者としてではなく“生活者”として
自分の生身の経験をかけた“私の話”として発言する場合に
断定的な話し方が出来る。

断定する文体から、そういった姿勢を学んだ。

文体のイメージとしては、中島敦などのような、
漢語的、ソリッド、論理性のある、骨格がハッキリしていて、
かつ同時に、生活実感がある。
コロキアル、やわらかい、傷ついた生身から発せられる文体。



2.祖述
「祖述」とは、先人の説を受け継いで述べること。

孔子の「述べてつくらず」という言葉がある。
中国の、当時500年以上前に存在した「周」の時代に
実際にあったことを私は述べているだけで、
そこに私のオリジナルな知見は含まれていない、
という意味の言葉である。

「私の発言は、先人のコピーであり、そこに私のオリジナルは含まれていない」

そのことで、発言者が、逆に自分自身の自由、創造性を
獲得しているということに気が付いた。

武道的な言い回しでは、
「定型に居つくことで、自由を得る」。


内田樹の師匠であるレヴィナスは、
「起源の遅れ」ということを言っている。
誰かに贈与を受けたことで、我々はいまここに存在している。
だから、我々は贈与を返済していかなくてはならない。
自分が出発点=起源ではない。

かつて実際にあったこと、先人が出来ていたことなど、
失われたものについて述べる。
それが未来に向けての提言になっている。

今、何かが出来ないとき。
「未来には、出来るだろう」と言われるよりも、
「過去には出来ていた」と言われる方が、人は勇気付けられる。

「述べてつくらず」
これは特に日本人の「パフォーマンスを高める型」である。
すばらしいもの(科学や思想、芸術、学問)をうまくパッケージして、
ひろめる。というやり方。
なまものをパッケージ化=あつかいやすく=情報化する。


内田樹の専門である仏文科において、
若い学者の研究対象が狭くなってきている。
その理由は、たくさんの人が研究する対象、メジャーな研究をする方が、
的確な評価、点数、フィードバックが得られるから。

この「メジャーな研究」というのは
“情報化されたものを扱う”ということである。

これに対して「マイナーな研究」というのは、
評価されにくい“なまものを扱う”ということ。

こうしてマイナーな研究をする「なまもの」を扱う若い人が
少なくなった結果、仏文科の学問が閉じられたものになっている。


「寝ながら学べる構造主義」という構造主義の入門書を書いたとき、
「内田君は啓蒙活動をしているね」と他の学者に言われたが、
それは違うと思った。
「啓蒙」という言葉は、読み手に対する敬意が全くないので嫌いな言葉である。
あの本は、日本の未来の展望を考える上で、
どうしても多くの日本人に知ってもらいたいと思った知見だから書いた。
読んでもらわないと、理解してもらわないと、意味がない。

白川静先生はオーディエンス・リーダー フレンドリーな人だった。
“サイ”の説明を何度聞いたかわからない。
わからない人に向かって、何度も同じ話を繰り返して話し続ける。


続く



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