ものがたりが始まる

今日の成瀬望

成瀬望「自己紹介年表」

「自己紹介年表」をフェイスブックに掲載してみました。
リンク
以下、フェイスブックと同文。

中学3年 15歳 2000年
受験勉強に意味が見出せず、進路に悩む。
しかし同じクラスの初恋の女の子に「勉強がんばろ♪」と言われ、
受験は人生のうちで一度は取り組む価値のあるスポーツだと割り切ってがんばる。

成績が急上昇。夏休み前、担任にムリだと言われた志望校よりも
さらに4ランクほど上の高校、府立豊中高等学校普通科に合格。

高校1年 15歳 2000年
初恋の女の子にもふられ、やる気も目的もなく高校入学したが、
部活(剣道部)に楽しみを見出し、熱心に励む。
本当に「青春」と呼べる楽しい高校生活が待っていた。
運命を変えることになる、寺山修司の本と出合う。


高校2年 16歳 2001年
部活は楽しかったが、受験勉強に疑問。
「自分の人生はこのままでいいのか?」と自問。
学校を休んで1週間、野宿しながら大阪から群馬まで旅をする。

結果、「学校だけが人生じゃない」「人生はすばらしい」と実感。
高校を中退する決意を固める。
思い残すことのないよう、勉強もそこそこがんばり、高校生活を楽しむ。

17歳  2002年
自分の進路について色々と調べ考えた結果、フリースクールであり斬新な学校
上田学園」に入学を希望。
親や親戚一同から反対され、毎日ケンカをするも、最後に入学を許可してもらう。
高校2年3学期終了式の後、高校中退。
クラスのみんなから花と応援の色紙をもらう。

4月から上田学園に入学。
望んだ通りの沢山のユニークな授業
日本語教師タイ語、商品企画、旅行会社、気功、リサーチ、翻訳、英語、水泳、四書五経、等)
を受け、また夏休みには工事現場にてアルバイトをするが、
学校でも仕事でも、自分のあまりの出来の悪さに愕然とする。
夏休み中に大検を取得。

仕事 アルバイト
年齢:18歳   シフト:週5日間  期間:1ヶ月間ちょっと
新日本物流(石運び)
主に建築現場にて、タイルを運んだり瓦礫を運んだり、重いものを運ぶ作業をする。

最初の数日は筋肉痛で自転車のブレーキも握れなくなるほどだった。
一番最初の現場では、「使えないヤツ」と派遣先の現場監督みたいな人に何度も言われた。
筋肉もないし、どこからどこへ物を運べと言われても、
現場の中で迷子になるほど方向感覚もなくて、とても辛かった。何度も怒鳴られた。
失敗して落ち込んで暗くなると、「暗いヤツがいると、現場の空気が悪くなる」と怒られた。
1週間も経つと体力的には大分ついていけるようになった。
同じ会社の人と話すようになり、いつの間にか「なるちゃん」と呼ばれるようになり、
仲のいい人や、かわいがってもらえる人が出来た。
相変わらず現場では失敗をしていたが、辞めたのは、
夏休み中だけのバイトと決めていたから。
翌年の夏も、会社の部長から電話があり、
働かないかと誘われたのはちょっと嬉しかった。


18歳  2003年
旅行会社に勤める先生の会社名義で、海外ツアーを作らせてもらい、
1年間ほとんどこれに専念する。
タイの田舎町で日本語を学ぶ国立大学の大学生達に、
町の市場やスーパーマーケット、近所の遺跡、
お祭りなどを案内してもらったり、料理を習ったりする
交流をメインとしたツアー「ふれあいタイツアー」を企画した。

企画、宣伝、手配、販売、添乗員まで、全部自分がリーダーとなって3人のチームで行った。
結果としては、身内ばかり7人集まったが、
最後はみんなウルルン滞在記のように、涙で終わり、大好評だった。
一時、顔面がしびれて感覚がなくなるほど人生のすべてを賭け、
本当に充実感があった。

仕事 アルバイト
年齢:18歳、19歳、20歳   期間:計3回 それぞれ1週間ほど
ビーインターナショナル(旅行会社ツアーの添乗員アシスタント)
ドイツで毎年開催されるハイムテキスタイルという布製品に関する
国際的展示会へ行くツアーの添乗員のお手伝い。
毎年このツアーには、企業の代表200〜300人が買い付けのために参加する。

この仕事も、方向感覚のない僕にとってはとても辛かった。
とくに初回は、初めて行ったヨーロッパの町をお客様を連れて観光案内したりしたが、
とてもじゃないがきつかった。やはり道に迷ったりして、かなり叱られた。
英語も、かろうじで日常会話がこなせる程度で、
お客様から「明日、サッカーを見に行きたいんだけど、どうしたらいい?」などと訪ねられ、
一生懸命ホテルのレセプションで説明を聞いたり、とても大変だった。
お客様を無事に会場まで案内できたり、困っていることにちゃんと答えれると嬉しかったが、
尋常じゃないプレッシャーのかかる仕事だった。



19歳 2004年
ひたすら、寝ても覚めても上田学園の授業に打ち込む。
テレビも本もほとんど見ない生活。毎週1〜2日は完全に徹夜。
しかし、多くの課題を抱えすぎスケジューリングがうまく出来ない。
やってもやっても一つ一つの課題が中途半端にしか出来ない。
どんどん失敗や、自分のダメなところが表に出てきて落ち込む。

卒業後、燃え尽きたような感じで、何をしていいかわからない。
ただ、休みたいとだけ思う。

仕事 アルバイト
19歳  夏  週7日間 2週間
品川プリンスホテルにて、ガチャピンとムックのイベントスタッフ
イベント会場の一画にある、子ども達がオリジナルの缶バッジをつくったり、
砂絵をつくったり、工作をしたりできるコーナーで、子ども達に遊び方を教えたりするスタッフをした。

子どもの相手も楽しかったが、会場で呼び込みをして、
お客様にこちらの遊びに興味を持ってもらうことに、とてもやりがいを感じた。
声のかけ方や、話し方、勧め方に色々と工夫して、
子どもや親が「じゃあ、やってみようかな」と言ってくれるのが嬉しかった。
あとは、どうしても会場が汚れてしまうのを、いかに防ごうかと工夫した。
汚いところは、「汚してもいいんだ」とお客様も思ってどんどん汚してしまうけれど、
きれいなところは、あまり汚れないようにお客様も気をつけてくれると気づき、
少しでも手が空くと会場の清掃をしたり、
遊び道具の配置に沿ってゴミ箱の位置を変えたりする工夫をした。
お客様アンケートで「工作コーナーのお兄さんが親切だった」という意見が
幾つかあったのが嬉しかった。
(6人ぐらい現場にいたので、直接僕のことを指しているわけではないが)

仕事 アルバイト
年齢:19歳  シフト:毎週月曜日   期間:11ヶ月間
有限会社レッツ日本語教育センター(日本語教師
厚木にあるNTTの研究所にて、ヨーロッパや中国などから来た
研究者に日本語をマンツーマンで教えた。
1授業1時間半ほどで、2人から多いときは4人の生徒を教えた。

日本語を外国人に教えることはボランティアで毎週、
18歳から20歳までやっていたので割合馴れていたが、
給料を貰うというのと、新しい教科書を使って教える、というので緊張した。
研究者は神経を使う研究の合間に、息抜きとして
日本語のレッスンを受けているという感じだったので、授業が楽しくなるように気を使った。
宿題も、生徒に合わせて量を変えたりした。
基本的に真面目で日本語に興味のある人が多かったので、教えやすかった。
レッツ日本語教育センターの授業メソッドの特徴は、英語を使わずに日本語だけで、
絵カードや教材、身振り手振りで教え、何度も口の練習をさせることだ。
その方が日本語のニュアンスや感覚を早くつかめ、日本語を話すことに馴れる、というのだが、
確かに自分の教えた生徒でも、早い生徒は
約1年でゼロから日常会話にほとんど支障がないほどになった。
生徒によっては、英語で説明しろと執拗に迫る生徒もいたが、
そういう生徒はなぜかすぐに簡単な言葉も忘れてしまった。
僕は生徒に合わせたり、授業の進行をスムーズにするために、
教科書の教える順番を変えたり、簡単なゲームを考えたり、教材を作ったり、
そういったことに工夫することで、やりがいを感じた。
辞めた理由は、学生である間だけと、最初から決めていたからだ。


ss="deco" style="font-size:x-large;">20歳 2005年
「物事を見る視点がおもしろいから、株をしたらどうだ?」という
上田学園の株授業の先生の勧めで、新聞奨学生として、住み込みで
証券アナリストの資格を目指す。
同時に、上田学園の聴講生として「株」と「リサーチ」授業に参加。
「リサーチ」授業は、テレビの企画やリサーチなどに携わっている講師のもと、
「あるテーマについて調べ、それを何らかの形にして発表する」授業だが、
そこに、テレビ関連会社に勤める上田学園の卒業生が参加したこともあり、急激に盛り上がる。
クイズ形式の人物伝を自費出版したり、
授業後のまとめと感想をラジオ番組としてインターネットに流したり、
上田学園のプロモーションビデオを制作したりする。

次第に、配達と「リサーチ」で、株を勉強する時間がなくなり、
株の勉強よりも自分のしたいことがあることに気づく。

仕事 アルバイト
年齢:20〜21歳   シフト:休みは1ヵ月につき6日ぐらい   期間:1年間
ニュースサービス日経吉祥寺店(新聞配達)
住み込みで、学生として資格の学校と、上田学園に通いながら働いた。

朝起きるのは辛かったし、夕刊もあるので生活がかなり縛られたが、
寮で大学生達との共同生活は楽しいことも沢山あった。
食堂でその日の出来事などを皆で話しながら、食事を一緒に作ったり寮のご飯を食べたり、
家族のような感覚があった。
仕事に関しては、精神的にもキツイ仕事なので、
助け合いや他の人への思いやりなどが結構大切だったが、
僕は気配りが足りないと何度か社員の人や先輩に怒られた。
本人は反省しているのだが、「失敗しても悪びれた様子がない」等の事を言われて、
そういった面で色々とたくさん考えさせられた。
あと、後半は学校が大変になり、寝坊したり、
配達中にバイクの上で居眠りして事故を起こしたり、なかなか散々な目にあった。
社員の人達からは「なるちゃん」、学生の女の子達からは「なるなる」と呼ばれて、
みんなで飲みにいったり、カラオケに行ったり、忘れがたい思い出となっている。



21歳  2006年
株の勉強を辞める。「リサーチ」授業だけ1年間続け、自分の進路を決めることにする。
睡眠不足で命の危険を感じ、新聞配達を辞める。コンビニで働き始める。
上田学園で戦後初めて来日したゾウのドキュメンタリー映像作品制作に1年かける。
先輩や先生から徹底的に叱られ、落ち込む。
夏休み、映画の専門学校の夏期講座を受講し、3分程度のサイレントフィルム映画を制作。
物凄く楽しかった。コンビニも映画の学校も、上田学園の外でも自分が通用するという自信になる。
映像作品の追い込みのため、年末から1月末までは、
ほとんど家に帰れず、不眠不休で学校とコンビニの往復生活に。
自分の体力と気力の限界に挑んだ。

仕事 アルバイト
年齢:22〜23歳  シフト:週5日から6日   期間:1年半
ローソン吉祥寺本町1丁目店(コンビニ店員)
ただ商品をバーコードに通すだけではなく、からあげクンなどの揚げ物を作ったり、
コンサートのチケットの発券、ゆうパックの受付、公共料金の支払い、
自賠責保険などの受付、年賀状やギフトの受付など、レジだけでも様々な業務がある。
それに加え、食品の販売許容のチェックや、商品の補充、
レジの点検、掃除、商品の発注など様々な仕事があり、仕事を覚えて馴れるに従い、
次々と新しい仕事を教えられ任されるようになる。
主婦や学生、フリーターなどばかりの職場なので、和気あいあいとした空気をしている。
仕事は実はやろうと思えば山のようにあるが、
チケットの買い方がわからないお客様がいればご案内をすぐにする必要があるなど、
何かあればすぐに対応できる余裕を持っておく必要がある。

僕が主に働く夕方の時間帯は、人手が不足していることもあり、
バイトを始めて3、4ヶ月ほどで、夕方の時間に関しては、
指示を出して仕事をまわしていく立場になった。
最初は冷や汗をかいていたが、だんだんいかに仕事を効率よく、職場を明るく楽しくやっていくか、
ということに工夫することが楽しくなった。
半年ちょっと経つと、自給が60円上がり、パンとサラダ、デザート、紙パックの飲み物、
麺類の弁当などの発注もさせてもらえるようになった。
従業員と飲みにいったり、相談をされたり、今までのバイトの中では、一番信頼され、うまくいったバイトである。
店をもうすぐ辞めるというと、沢山の従業員から、「さびしくなる」とか、
「この店大変になるよ」などと言ってもらえた。
悪いことをした社員がクビになったり、社会の縮図を目の当たりにする経験もし、
とても勉強させてもらえた。
もちろん失敗も何度もしているが、自分が指示を出せる立場にある、ということもあり、
どんどん新しいアイディアを活かして改善できるので、とてもやりがいがあった。
ここで学んだ一番のことは、やはり仕事が出来る出来ない以前に、人間=人柄が大切だなということだ。
“自分が楽を出来るように仕事を回すけども、仕事の出来る社員”は
結局横領してクビになった。バイトでもやはり他の人を優先したり、
職場の空気を考えられる人は、最初は仕事が出来なくても、伸びるとものすごく信頼されて
どんどん仕事を任せられる。自分勝手な人は、いくら仕事が出来ても使いにくいと思われるし、
使われたくないとも思われる。
言葉にすると当たり前で、そんなの最初からわかってることかもしれないが、
ここでのたくさんの経験を通して、改めて力強くそう思えたのはとてもよかったと思う。



22歳  2007年
春、ゾウのドキュメンタリー完成。井の頭自然文化園で上映会。
もうこれ以上は、学校ではなく社会に出て学ぶ方が、成長出来ると思い、就職を決意。
出版業界を志望。50社以上受けるが、落ちる。
夏の終わり、社長に履歴書を気に入られ、突然契約社員として株式会社ブリッジに就職。

23歳 2008年
がむしゃらに神奈川の郊外で営業する。初めてのサラリーマン、初めての営業、
初めての出版業界で、新鮮な日々。悪くはないが飛び切りよくもない成績で安定。
しかしだんだん成績が伸びて入社半年後には首都圏のエースと呼ばれるようになる。
早起きと休日も使った徹底的な準備が強み。

24歳 2009年
営業成績がいいので、正社員になると同時に主任に昇進。
全国の営業(40名ほど)の中でも常に上位成績。最高全国2位。
しかし営業自体には慣れが出てきて気持ちはマンネリ気味に。
そんなとき、東京の中心部のエリアの営業が、成績が上げられなくて
3人以上も移動、退職するのを見ていて、自ら新しい挑戦を求めて立候補。
東京都中心部の営業にエリア移動し、苦戦するも徐々にスタイルをつかみ、
神奈川郊外ほどはいかないが、成績がキチンとあげられるエリアに改変。
首都圏チーム全体も成績がよく、営業チームで飲みに行く機会も増え、黄金時代に。
仕事の参考に読み出したビジネス書にはまって多読する。

25歳 2010年
営業成績良好で係長に昇進。
ビジネス書の読書会、勉強会などに積極的に参加。
ビジネス書を中心に年間300冊以上読破。
だんだん仕事が物足りなくなり、新規事業、出版事業など、他の部署などにも
企画や会議に参加するようになる。
できれば他の部署に異動したかったが、できず。
もっと人から感謝・共感され、自分でもやりがいを感じられる仕事を求めて、
退職を決意。海外移住を考える。

仕事 契約社員から正社員→主任→係長
年齢:23〜26歳  期間:3年間
株式会社ブリッジ(マーケティング営業部)
株式会社ブリッジは、出版社の営業代行からスタートし、
コールセンター・カスタマーサービス、書店に設置するフリーペーパーの手配、
書店でのサンプリングなど書店での様々なプロモーションを行っている会社。
私は書店まわりの営業として、1年目は神奈川県郊外、2〜3年目は東京都中心部を担当。
まったく性質の違うエリアでかつ、それぞれ前任者が
売り上げを立てられていなかったのにも関わらず、実績をあげた。
他の部署の企画会議に参加したり、社内報に連載を持たせて頂いたり、
営業チームの飲み会を定期開催。
はじめて社員として、興味ある出版業界に入れたので、がむしゃらに働いた。
営業成績が良かった理由は、単純に準備を徹底的にして、
当たり前と思えることをきっちりやり、人よりも長く働いた結果。
それでも、燃え尽きてからっぽになるほどがんばった上田学園時代に比べれば楽な日々だった。
上司にも恵まれ、人柄の良い社員に囲まれていたが、
2年目から、仕事がどれだけ世の中の役に立っているのか、悩みだし、
自分はどこへ向かって成長したいのか自問自答。
本を年間300冊以上読み、読書会など社会人交流会にも積極的に参加。
だんだん目標を失い、もっと自分が世の中の役に立っていると感謝される仕事、
共感される仕事でかつ、自分が楽しめる仕事がしたいと思い、
冒険するなら早いうちが良いと考え、退職。


26歳 2011年
株式会社ブリッジ退職。
仲の良い社員の方たちからお別れ会を開いて頂き、
社長以下全社員のメッセージの入った3枚の色紙を頂き、胴上げされる。

海外に移住しようと思い、いろいろ調べる。
古巣の上田学園上田学園長から、学園運営を半年手伝ってほしいと依頼され、
ホームページの改善や、オープンクラスなどのイベントを企画、講演の手伝い、
上田先生を誘って外部イベントへの参加、学園の未来像など議論をする。
貯金も少なくなり、海外に出る前に一度実家に帰ろうと、
10年ぶりに大阪の実家へ帰郷。
人生の目標が見出せなくなり、ひたすら読書の日々。

徳島県上勝町の株式会社いろどりのインターンシップ研修に参加。
「お手紙プロジェクト」という課題制作のプロジェクトを通して、
目標を持って人を巻き込み、スピード感を持って仕事をする楽しさを思い出す。
すばらしい人たちとの出会いがあり、また、人とのつながり、シェアすることの大切さを実感し、
海外に出て離れてしまうことをもったいなく思い、
日本ですばらしい仲間達とのつながりの中で仕事し、共に生きていくことを夢見て、
海外移住計画は中止、日本で働くことを決意。

仕事 ボランティア
年齢:26歳  シフト:ほぼ毎日  期間:半年
上田学園(ホームページ制作、学校運営のお手伝い)
古巣の上田学園の学生が0人になる寸前という危機を迎えていて、
手伝ってほしいと上田学園長に頼まれ、ホームページ作成、
オープンクラスなどのイベントを開催。しかし結局、新しい学生が入学するところまでは行かず。
学園長の上田先生と様々なお話ができ、一緒にこれから学園をどうしていくか、
日本はどうなるのかといったことを徹底的に話し合い、2人でイベントや人に会いに出かけ、
新しい出会いや風を学園に吹かせることができ、何より上田先生に元気になっていただく
お手伝いができたことが、自分の役割だったのではと思っている。


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